御祭神
御由緒
当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天の御分霊をお祀りしている。
弁財天を深く信仰した杉山和一は武家の生まれで幼くして病により失明し、身を立てるために鍼術を志す。江戸の山瀬琢一に入門するも、技術が向上せず師の下を破門される。
しかし目の不自由な自分が生きるために何かを成さねばならぬと江ノ島弁天の岩屋に籠り断食修行を行う。満願の日、大きな石につまづき倒れてしまうが、何か足に刺さる物があり手に取ってみると筒状になった椎の葉に松葉が包まっていた。
「いくら細い鍼でも管に入れて使えば、盲人の私でも容易く打つことができる」
こうして現代の鍼術の主流となっている「管鍼術」を授かったのである。躓いた石は「福石」として本社江島神社に祀られている。
その後京都の入江豊明の下で更に鍼術を学び、江戸で開業すると鍼の名人として有名となった。この和一の名声を聞いた五代将軍徳川綱吉が、和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自身の治療にあたらせた。
六十一歳で盲人最高位の役職に就き「鍼治講習所」を開いた。多くの弟子に鍼・按摩技術を教育し職業の確立を進めた、世界初の盲人教育の場である。
綱吉公の難病を治療・回復させた功により和一が八十三歳の時、何か欲しい物はないかという綱吉公の問いかけに「ただ一つ目が欲しゅうございます」と答え、元禄六年六月十八日、当地本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜わり、また老いてもなお江ノ島への月参りを続ける和一の身を案じ、江ノ島弁財天を当地に勧請して祀ることを許され、翌年には荘厳な社殿が建立された。
たちまち「本所一ツ目弁天社」と呼ばれ名所になり、江戸庶民の信仰を集めた。
翌元禄七年五月十八日杉山和一 八十五歳没。
明治四年 当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されるが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしていたため残され、社名も江島神社となる。
明治二十三年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀。震災戦災により二つの社殿は焼失するが、昭和二十七年に合祀し江島杉山神社となる。
弁財天を深く信仰した杉山和一は武家の生まれで幼くして病により失明し、身を立てるために鍼術を志す。江戸の山瀬琢一に入門するも、技術が向上せず師の下を破門される。
しかし目の不自由な自分が生きるために何かを成さねばならぬと江ノ島弁天の岩屋に籠り断食修行を行う。満願の日、大きな石につまづき倒れてしまうが、何か足に刺さる物があり手に取ってみると筒状になった椎の葉に松葉が包まっていた。
「いくら細い鍼でも管に入れて使えば、盲人の私でも容易く打つことができる」
こうして現代の鍼術の主流となっている「管鍼術」を授かったのである。躓いた石は「福石」として本社江島神社に祀られている。
その後京都の入江豊明の下で更に鍼術を学び、江戸で開業すると鍼の名人として有名となった。この和一の名声を聞いた五代将軍徳川綱吉が、和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自身の治療にあたらせた。
六十一歳で盲人最高位の役職に就き「鍼治講習所」を開いた。多くの弟子に鍼・按摩技術を教育し職業の確立を進めた、世界初の盲人教育の場である。
綱吉公の難病を治療・回復させた功により和一が八十三歳の時、何か欲しい物はないかという綱吉公の問いかけに「ただ一つ目が欲しゅうございます」と答え、元禄六年六月十八日、当地本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜わり、また老いてもなお江ノ島への月参りを続ける和一の身を案じ、江ノ島弁財天を当地に勧請して祀ることを許され、翌年には荘厳な社殿が建立された。
たちまち「本所一ツ目弁天社」と呼ばれ名所になり、江戸庶民の信仰を集めた。
翌元禄七年五月十八日杉山和一 八十五歳没。
明治四年 当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されるが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしていたため残され、社名も江島神社となる。
明治二十三年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀。震災戦災により二つの社殿は焼失するが、昭和二十七年に合祀し江島杉山神社となる。